何かを好きであるということについて

「好き」というのはどういう状態のことを指すのかということについて思うことがあるのでその話をします。

最近、昔から好きだったものに触れてまたハマったりだとかライブに行って感動したりだとかという体験を多くしているのですが、そんな体験の中で思ったのが、「好き」というのはその「好き」の対象から離れること無く、ずっと興味を持ち続け、触れ続けていることなのではないかなと。

言い方を変えると、「自分にとって『過去』のものではなく、いつまでも『今』であり続けているもの」こそが「好き」な何かであると思います。
例えばもう15年以上前に生まれたコンテンツだとしても、それを日常的に摂取し続けている限り、自分にとっての『今』であり続けるし、出会った当初から何も色褪せることは無いはずだと思います。

つまり、「好き」というのは行動によって自動的に生まれていくものであって、きれいな言葉で修飾して好きだということを言葉で表してみても、そういう”設定”で日々をただ生活していても、「好き」にはなれないということです。

「好き」だから行動する、ではなく、行動することにより「好き」という状態が発生する、ということが言いたいです。

なので、自分としては好きだというつもりの何かにたまに触れてみた時に、「懐かしいなあ」とか「久しぶりに見た、聴いた」などと感じてしまった時点で、もう「好き」は消えてしまっているのではないかなと思います。

何かを好きであるということは、自分が何者であるのかを定義する上でとても大事な要素であると思うので、自分では好きなつもりである何かのことをもはや好きではなくなっているということに向き合うのはとても辛いし、考えたくないことであることは言うまでもありません。

でも、「好きなつもりの何か」のことを考えたり、触れてみたりという機会が自分の日常の中にないという事実からは逃れようがないですし、時たまやってくる好きなはずなのに全然触れられていないことに対する苦悩と戦い続けることになります。

だからこうしなさい、こうすべきだという話をするつもりはなくて、もはや過去のものに成り果てているので忘れるべきとするか、いつまでもぐだぐだと好きだという設定を維持し続けるか、その他に何か良い選択肢があるのか、僕にもわかりません。

ただ言えることがあるとすれば、自分にとっての「今」であり続けてくれている何かのことを、あんまり毎日触れていたら飽きてしまうんじゃないかと躊躇したり、もったいぶったりせずに精一杯時間と体力とお金を捧げて愛で続けるべきだということで、それは「今」だからこそできることだということです。そして「過去」は「過去」であって何を言っても変わることはないものだということです。

えー特にオチはありません。

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